ご恩塾の立ち上げ

画像 私は北海道留萌市という小さな町で生まれ、高校卒業までそこで育った。私の高校時代、市の人口は4万人程度だったと記憶している。過疎が進んで今はその半分程度である。そんな小さな町にも7月には年に一度のお祭りはあった。

私が小さい頃、お祭りに出かけると、神社の周りには白い服を着て軍帽をかぶった傷痍(しょうい)軍人がいた。傷痍軍人と言っても、今では何のことだか分からない人も多いだろう。戦争で傷ついた兵隊さんたちのことである。両足を失った人、片腕のない人、そんな兵隊さんたちが、市民から義援金をもらうために並んでいるのである。アコーディオンを弾いていた人、ハーモニカを吹いていた人、皆さん何も言わず、ただ寡黙だった。そんな人たちに、お祭りに父からもらった小遣いを全部あげて、帰ってから怒られたものだった。
 当時NHKラジオでは「たずねびとの時間」という番組があった。戦争中、あるいは戦後のどさくさで離ればなれになった親族や知人を探す番組である。こんな番組があったなんて、今では想像もつかないことだろう。年末になると「歳末助け合い運動」が始まった。小学生の私は、母からお年玉を前借りしてNHKに寄付したものだった。NHKでは寄付した人の名前をラジオで流し、私の名前が出るのを母とじっと待ちながらラジオを聞いていたものだった。
 当時の私の家庭は裕福だった。小学1年生の遠足の写真を見ると、継ぎのない服を着ているのは私だけで、まともに靴を履いていない子もいた。学校では私よりも勉強の出来る子がたくさんいた。しかし、彼らの多くは貧しさのため、大学はおろか高校にも進学できない宿命にあった。こんな時代に、衣食住何の不自由もなく育った私は、自分ひとりが恵まれていることにどこかコンプレックスを持っていたと思う。

 テレビが登場し、携帯電話だインターネットだと、この半世紀の間に世の中は大きく進歩し、便利になった。人々の生活も向上して良いはずだった。確かに、一億総中流と言われた時代もあったが、今では格差が広がる一方である。裕福な家庭では子供を塾へ行かせ、私立中高から大学に進ませることは出来るが、生活困窮家庭ではそのようなことは出来ない。その結果、格差は恒常化し、ますます広がるばかりとなる。このままではいけないと思った。
 私も年令を重ね、社会の第一線から退いてもよい時期に達し、お金をいただいて塾の教師を務めることの重圧からそろそろ解放されたいと思っていた。このようなことから、私一人が出来ることなどたかが知れていることは承知の上で、生活困窮家庭の子供さん相手に、お金をいただかないで勉強を教えることを思い立った。私自身も楽な生活が出来ている訳ではないが、なんとか出来る範囲で昔感じていた負い目を果たすべく、ささやかながら社会貢献できればとの思いから、ご恩塾の開設を決意した次第である。

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