子どもを信頼するということ

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 母「宿題はないのー?」
 子「ないよー」
 母「宿題おわったのー?」
 子「おわったよー」
 どこの家庭にもある母と子のなにげない会話である。

 子どもの返事に母は「本当に宿題ないのかな?」「本当に宿題終わったのかな?」と、一瞬疑問を感じるが、「これ以上子どもを追求することもやっかいだ。とりあえず母親として子どもに声はかけた。」と、母親としての義務を「完了」したことに満足して子どもが遊びに出かけるのを見送るのである

 塾や学校からテスト結果が届くと、母親が先ず目にするのは、得点であり順位である。一般に世の母親は、昨夜、亭主に何を食べさせたかはあまりよく覚えていなくとも、前回の子どものテストの得点と順位は覚えているものだ。
 結果が悪かろうものなら、それはそれは大変なことになる。
 「宿題はちゃんとやっているって言ってたでしょ!」と、子どものごまかしを追求する。
 ここで子どもはじっと耐える。時には涙の一つも見せて「こんどがんばるから・・・」とひと言。
 これで一件落着。いつも子どもの勝利で終わる。そして、このドラマは循環小数の如く、延々と続くのである。

 子どもを愛すると言うとき、それがかわいいだけの盲目的な愛であっては、子どもの自立を阻むことになるであろう。
 同じように、子どもの言うこと全てを信じ込むことも危険なことではないだろうか。どんなときでも、子どもは自分にとって不利になることは、親にはなかなか言わないものである。小さな事件があったとき、子どもは自分が悪くはないこと、あるいは被害者であることを親に訴える。こんなとき、親には冷静な判断が必要である。客観的な立場で、少し覚めたところから子どもを見つめる必要があるように思う。

 親として、子どもを信頼することが大切なことであるのは論を待たない。親から信頼されて育った子どもは、自分自身の行動に責任を持てる人間に成長できる。
 私自身も、今は亡き両親に信頼されて育てられたからこそ、人の道を過たず、世間にさほどの迷惑もかけずに、ここまで生きてこられたのだと思う。
 それでも、子どもの頃、中学生時代までは、非常に厳しく育てられた記憶がある。自分の過ちには徹底して責任を取らされた。今にして思えば、親が私を信頼する態度を示したのは、高校生、あるいは大学進学以降だったようである。

 私は、子どもがまだ小学生や中学生の時期は、子どもの言動を鵜呑みにせず、親の責任としてそのことをチェックする必要があるように思う。そして、子どもの言動に少しでも偽りがあれば、そのことを厳しく叱るべきだと思う。
 親として、子どもに教えるべきことがらとして最も大切なことは「うそをつかない」ことだと思う。うそをつくことが恥ずかしいことだと親から厳しくしつけられた子どもは、将来、人から信頼される人間に成長できる。
 逆に、うそである疑いを感じながらも子どもをかばい続けると、子どもは、うそをつくことに罪の意識を感じなくなり、やがては人の信頼を失い、世間で孤立する存在になってしまう。

 全面的に子どもの言動を信じ、やがては子どもに従う。このような親子関係を構築するためにも、子どもが小学生、中学生の時代は親は冷静な目で子どもを見つめ、厳しくしつける必要があるのではないだろうか。最近の若い母親を見て、このように感じた。

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