発想法

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 思い起こしてみれば、私は小さい頃から人と違った意見を言ってきた。たとえばホームルームで、みんなが賛成する意見に私一人が反対し、違った意見を発表したりした。だから担任からは嫌われ、周囲の人間からは「あまのじゃく」と言われてきた。私は、皆の意見のどこが正しいのか、私の意見のどこが支持されないのか、そしてそのことで、どうして先生たちから煙たがられるのか、どうしても理解できなかった。

 当時の小学校、中学校の教師は日教組の組合員が多く、今以上に「社会主義的平等指向」が強い時代だったように思う。加えて、戦後の民主化教育なるものがはき違えられ、権利と平等が最優先されていた。だから、人と違うことを考えたり言ったりすると嫌われた。私のような考え方をする人間は世間からはじかれた。そもそも、まっとうなサラリーマン生活にはなじめず、場末の寺子屋で師匠をやっているような人間である。出る杭は打たれっぱなしなのである。
 今の世の中はずいぶん変わってきたように思う。いろいろな意見が出て大いに議論されるようになったし、突拍子もない考えも、はじかれるどころか、そこから出てくる発想が取り入れられることも少なくなくなってきた。この点では、時代は進歩し、文化の底が深くなったように感じる。そんな中、私はどうやら、相変わらず人と違った発想を心がけているようある。大学受験生に小論文を指導したときは、とにかく人と違った意見を書くよう強く言ってきた。課題論文では、作者の意見に反対の立場で書くことを勧めた。賛成意見ならば、作者と同じ事しか書けない。反対意見ならば、論述内容に無数の選択肢が得られ、独自の発想を取り入れられるからだ。
 小論文だけでなく、あらゆる場面において、人と同じことを考えているようでは、それこそ「人なみ」以上にはなれない。人が考えつかないような、あっと驚く発想をする事が、これからの世の中で求められているように思う。
 だからといって、むやみに人の意見に反対することは節操がない。新しい発想など、そう簡単に生まれるものでもない。発想力をつけるには、先人の知恵に学ぶ必要がある。そのためには勉強すること以外に方法はない。私の場合、読書以外には、書くことを心がけている。今はホームページという便利なものが利用できる。個人的にはあまり好みではないが、自分の勉強のためにホームページを作り、つたない文章を書く練習をしている。
 発想には一貫性が必要である。新しい発想が生まれたとしても、それが今までの自分の意見とは相容れないものであるならば、信用が失墜するのみである。たとえば、宗教、哲学、思想が自己の意見の根底にあるべきである。私の場合、そのような大それたものが根柢にあるわけではない。まあ、義理とか人情、それに加えて、縄文人的思考といったものであろうか。
 ぱっとアイデアが浮かぶ場所は人によって違うようだ。私の場合、洗面所が多い。顔を洗っているとき、歯を磨いているときに、ひらめくことがある。「オッこれだ!あとでメモしよう」と思っていて、メモする時にはすでに忘れてしまっていることがたびたびある。野口悠紀夫さんの『超整理法』にもこのようなことが書かれてあった。私は野口さんに倣って常に薄いメモ帳を持参するようにした。思いついたことを、その場で一つの単語だけでもメモしておくのである。このことによって、せっかく湧き出た発想を取り逃がすことが少なくなった。実はこの文章も、あるとき思いついたメモを見て書いたものである。

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