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zoom RSS 良心と忖度

<<   作成日時 : 2017/04/04 13:12  

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日本国憲法には、良心という言葉が二回使われている。一つは、第19条の思想及び良心の自由であり、もう一つは第76条、裁判官の良心についてである。

 良心という言葉は、まことに使い勝手が良いが、よく考えると抽象的な言葉である。時代によっても良心の有り様は変わってくるのではないだろうか。江戸時代の武士であれば、主君や親の仇を討ったり、潔く腹を切るのが良心だったかも知れない。戦中の若者にとっての良心は、国のために見事に散ることだったのかも知れない。日本国憲法発足時は、大政翼賛会的束縛から解放され、人々は自由を実感したことだろう。その中で、自己を主張すること、あるいは自己の権利を追求することが可能になった。いまだに資本家との階級闘争を演じていた労働者は、自身の権利を獲得するために闘争することが良心に従うことだと思っていたのかも知れない。
 平成の今、人々にとっての良心とは何だろう。会社のために必死に働くこと、あるいは家族を養うことであるという人もいるだろうし、NPOやボランティアで社会貢献することで良心を表現している人もいるだろう。
 このように、良心とは時代と共に変遷し、一つの時代の中にあっても様々な解釈がなされうる言葉だと思う。裁判官にとっての良心とは何だろう。すべての裁判官には普遍的な良心というものがあるのだろうか。
 様々な時代、あるいは様々な立場によって解釈の異なる良心という言葉にも、その深淵には共通する何かがあるように思う。それは、個人の意思がその中にあることではないか。たとえ、強制されたものであったとしても。

 このところ毎日のように新聞紙上に表れる言葉に、忖度がある。めったにお目にかからない言葉だが、例の森友学園騒動から一躍使用されるようになった。早くも今年の流行語大賞に選ばれそうな勢いである。
 広辞苑で「忖度」を引くと、「他人の心中をおしはかること。推察。」とある。なぜ「他人の心中をおしはかる」のだろう。思いやりや気配りと似たような言葉ではあるが、新聞紙上での使われ方からはそれとは随分と隔たりのある内容であるように思われる。少なくともそこに自己の良心による判断での行動という意味合いは見られない。むしろ、保身の心理が忖度に結びついているように思えてならない。
 だとすれば、良心を棚の上に置いてまでも忖度を優先する行動は、人間として貧しすぎる。報道のように、忖度の実行者が公務員であるとすればなおさらである。いったい公務員はどちらに顔を向けているのだろうか。
 日本国憲法の話に戻れば、その第15条2項に「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」と記されている。

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