不正はいけないことだけれど

 京都大学や早稲田大学で携帯電話を利用したカンニング事件が起こり、世の中を騒然とさせた。

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 犯人が逮捕されるまでの間、いろいろな「識者」が新聞紙面やテレビ画面に登場しては「犯行の手口」を推論していた。ある人は、複数犯人説を、ある人は愉快犯説を、またある人は最新鋭の携帯を使った巧妙な犯行説を、確信を持って論じていた。
 ふたを開けてみれば、受かりたい一心での単独犯で、しかもかなり単純な手口での犯行であったことが判明した。

 入試不正事件が一件落着したあとは、「不正の手口」から「入学試験のありかた」が議論されるようになってきた。今回のような不正を未然に防ぐ方法について、またしても「識者」へのインタビューが紙面を賑わせている。
この中で、私が目にとめたのは3月4日付朝日新聞朝刊の養老孟司先生のコメントである。私は養老先生が大好きで、特に最近は環境問題で論陣を張っておられる養老先生のお説には深く共感している。しかし、今回のコメントはいささか納得できない。
 養老先生は朝日新聞へのコメントで「子どもがどんどん減っている時代に、点数で線を引く入学試験を続けなきゃならないのか。」と述べ、「ひと月も見ていたら、どんな人物かは分かる」から、「じっくり人を見たらどうか」と述べておられる。
 しかし、僭越ながらこのお説にはいくつかの難点があるものと思われる。ひとつは「誰が1ヶ月の間受験生を見るのか。」である。全国の国立大学受験生を1ヶ月の間ホームステイ出来る環境は日本国にはないし、仮にそれが可能であったとしても、その中での人物評価が正しいかどうかは神にしか分からないことである。
 ふたつ目は「点数で線を引く入学試験」を「悪」と捉えている視線である。たしかに、「入試得点」だけで本人の人格を判定することは出来ないことであろう。しかし、受験生は皆努力してここまで来たのであり、その努力を否定することは許されることではないと思う。

 私は、面接もなく卒業学校での評価も見ずに、入学試験の成績一本で合否を判断する今の入試制度が、もっとも客観的でフェアな選抜方法だと思っている。もちろん、入学試験問題の内容について、例えば記述問題や考えさせる問題を増やすなど、現代社会に見合った改善は必要である。
 大学入試と企業の入社試験とは自ずと異なるものである。入社試験においては、各社が自分の会社にふさわしい者を選べばよいのであって、そこに面接試験があるのは当然である。学歴もさして関係ないだろう。入学試験と入社試験とは本質的に異なる試験である。それをいっぱ一からげに論じることは養老先生らしくないのではないか。
 そもそも、大学とは入学した学生の教養を高め、人格を形成させる場所であるはずである。まだまだ磨かれていない学生を立派な人間に育て上げ、企業や社会から評価される人間に育てることが最高学府の役目でもあろう。だとすれば、入学試験でじっくり人を見るのではなく、卒業時点で人から見られて恥ずかしくない人間に育てることが大切なのではないか。

 今回の不正入試事件について、世の中は少々騒ぎすぎているように思われる。たった一人の、真面目だが社会性の欠けたいたずら坊主がやってしまった行為である。冷静に考えればいずれバレるに決まっている行為でもある。悪いのは、このような不正を見破ることが出来なかった大学側なのではないか。京大総長が言うように「厳正に監督するよう指導しているし、研修も行って万全の体制を期してきた」ならば、このようなことが見破れないはずはなく、研修もいい加減なものだったと判断せざるを得ない。まして、たった一人の不正行為から、「入試制度の見直し」を論ずるのは、少し早計すぎるのではないだろうか。

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