評価

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 我々人間集団の中では、どのような形態の集団であっても「評価」というものの存在は常につきまとうものなのだろう。評価する立場と評価される立場、人間はこのどちらかに属するもののように思われる。そして、その「評価」が妥当なものであるか、そうでないか、この判断もその属する社会集団または個人によって異なるものであろう。

 例えば、スポーツの集団である。この集団での評価は、おおむね客観的なものといえる。相手に何回勝った、記録を何秒縮めた、というような具体的数字が伴うものがこの世界の評価にはある。だから、たいていの人はこの評価に従い、自分の出処進退を明らかにする。
 ビジネスの世界は、あるいはもっとシビアかもしれない。日本的年功序列の時代は既に過去のものである。他の人より、どれだけ売り上げが多かったか、会社の経営にとってどれだけ有益なビジョンを提供できたか、このようなことによって、社内での地位、あるいは俸給も変わって来る。
 このように、様々な世界で「評価」は存在する。そして、その評価は客観的で妥当なものが多い。しかし、必ずしも明朗であるとは限らない評価もある。その一つとして私がここで論じたい評価は、学校、特に公立中学校における評価についてである。 公立中学校での評価は、非常に長い期間にわたって相対評価であった。今は大人になっている人たちの中学生時代は、おしなべて相対評価で内申点がつけられていたはずである。ところが、この数年「努力が報われない」といった理由で絶対評価が主流になってきた。これが本当に中学生にとって良いものであるのかどうかを検証してみたい。

 私の塾がある藤沢市北部という非常に限られた狭い世界の中でさえ、中学校の間の格差は厳然と存在する。公立中学校が相対評価をとっていた頃のことである。私の塾のテストでトップをとるA中学校の生徒の内申点が必ずしも高くない反面、学校ではオール5をとっているB中学校の生徒の塾での成績が中より下という例もあった。
 この学校間格差が問題となり、また生徒の頑張る気持ちを評価しようということで、このところ公立中学校では絶対評価が採用されるようになっている。では、絶対評価になれば、今までの不公平感は除去されるのであろうか。私はそのようにはならないと考えているし、教師が絶対的に生徒を評価すること自体に疑問を感じている。
 そもそも、高気圧と低気圧、円高と円安等々、かのアインシュタインの相対性理論を引き合いに出すまでもなく、世の中おしなべて相対の中で成り立っている。それでも自然科学の世界では絶対は存在するのかもしれないが、一般に絶対的存在とは神以外には無く、その神も、キリスト教とイスラム教の神くらいが絶対的神といえるもので、日本では山や川に八百万の神がおわし、神でさえ絶対的なものとは言えない。
 神とはほど遠い、たかだか地方公務員たる公立中学校の教師ごときが将来有為な子どもたちを絶対的に評価することなど、あっていいものとはとても思えない。
 塾と公立学校の大きな違いの一つは「評価」にある。塾では教師が生徒から評価される。生徒から評判の悪い教師は、やがて淘汰される。
本来、公立中学校の教師も、塾のように、生徒や保護者から評価されてしかるべき存在なのである。

 それでも、学校間格差を考慮し、教師が極めて客観的に生徒に対して評価を下しているのであれば、まだいい。しかし、実態はそうではない。私の塾の生徒の多くは、自分につけられた内申点が納得できるものであるとは感じていない。絶対評価の時代になって、自分の努力が教師から認められているとは思っていないのである。
 茅ヶ崎市立中学の英語科教師が、学校の定期試験に前任校で作成した問題から同じ問題を7割出題したことが新聞に載っていた。たまたまこの問題を塾からもらった生徒が発見したそうである。ようやく新聞沙汰になったか、というのがこの記事を読んだ私の感想である。塾の側から公立中学を見ていると、こんなことは日常茶飯事なのだ。大部分の中学生が、学校の定期テストに、過去に出された問題と同じ問題が出た、という経験をしているはずである。この問題を見ていた者はよい点を取り、見ていなかった者は損をする。そしてテストの得点がストレートに内申点に反映するのである。これが公立中学の教師の、生徒に対する評価の実態なのである。もちろん、全てがそうだとは言わないが、このような事実がひとつでもあれば、客観的評価という前提が崩れる。
 先の記事について、一つの疑問がおこる。なぜ、塾に通っていた生徒がこの問題を持っていたか、である。実は塾によっては、こういった破廉恥な公立中学教師の存在を逆手にとって営業しているところがある。中学の問題作成担当教師の前任校まで調べ、その問題を取り寄せ、塾生に渡すのである。「傾向を調べる」といえば聞こえはいいが、実態は「問題を当てる」ことである。かくて、このような塾は実績を上げ大もうけをする。いったい、生徒はどこにいるのだろう。 

 そもそも、なぜ中学教師が将来有為な子どもたちを評価する必要があるのだろうか。しかも絶対評価で。最も重要な点は、教師が行う評価が内申点として高校入試の資料になるという点である。この場合の高校とは、公立高校のみならず、私立高校も含まれるのである。
 このように、生徒の一生にとって極めて重要な内申点が教師の胸先三寸でどうにでもなる。あるいは、教師の手抜きで不公平な評価となる。こんなに大きな問題があるのに、なぜそれでも教師が生徒を評価する必要があるのだろうか。
 評価がなければ、生徒が真剣に授業を聞いてくれない、とは中学校側の教師の弁明である。そんなことはない。良い授業をしていれば生徒は目を輝かせて授業に聞き入る。そう出来ないのは、単に教師の力量不足によるのである。そのような教師は教壇を去るべきである。
 先にも書いたが、塾では生徒を評価することは一切ない。逆に、常に生徒や保護者から評価されている。それでも、塾に来ている生徒は常に真剣そのものである。
 私は、公立中学に評価は必要ないと思っている。まして高校入試に極めて不明朗な内申点を参考資料とすべきではないと思っている。入学試験は実力勝負である。中学入試や多くの大学入試のように、入学試験一本で決めればそれでよい。こうした方が、公立中学の教師もいっそう真剣になるだろう。生徒も内申点に縛られず、のびのびと勉強できるだろう。ついでに言わせていただければ、テスト問題を当てることに奔走して儲かる塾もなくなるだろう。
 一弱小塾の教師がこのような場で書いても、やせ犬の遠吠えにすぎないことは分かっているが。

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