体罰

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 戸塚ヨットスクール校長が刑期を終えて出獄してきた。彼曰く「体罰は教育です」と。私の記憶では、この校長は、何人かのスクール生をヨットの練習場で死なせたり行方不明にさせたりして、有罪判決を受けた人である。戸塚ヨットスクールは、「何らかの問題」を持った子どもたちを集めたスクールで、彼らを社会復帰させるため、場合によっては体罰を取り入れてでも子どもを再生させようという主旨で始めたスクールのようである。私は「何らかの問題」の具体的事実を知らない。更に、その子どもたちの教育には、携わった者でなければ分からない事情もあったに違いない。だから、よく分からない組織について、体罰は必要だとか、すべきものではないとか、軽々に論じることは差し控えたい。
 戸塚校長の出所で、体罰の是非についての議論が再燃しているようなので、良い機会でもあり、体罰について私塾の教師としての私の考えをまとめてみたい。

 私は、体罰という物理的作用を、教育全般の中で論じることには無理があると思う。例えば、少年刑務所や、何らかの更正施設における教育である。これらの施設においては、話しても分からない人間たちが存在するため、あるいは昔の軍隊のように「気合い」を入れるための体罰が必要なのかもしれない。戸塚ヨットスクールも、そのような施設の延長上にあるものかもしれない。あくまでも私の勝手な想像である。このような世界は、私が現在生活している世界とは余りにもかけ離れていて、私の理解の域を超えている。だから、これから述べることは、このような世界における体罰に関してではないことをご承知おきいただきたい。

 私は私塾の教師である。塾という所は、非常に自由な空間である。学校と違って、入りたい者だけが入り、やめたければいつでも自由にやめることが出来る。塾は、更正施設のように本人の意思に反して強制入所させられるところではないのである。
 「自分は殴られたい。殴られて自分の根性をたたき直して欲しい。」もしも、このような子どもがいて体罰塾に入りたいというなら、それは本人の自由と言うしかないだろう。
 数ヶ月前に亡くなられた入江伸氏が主宰していた入江塾という塾は、まさに体罰塾だった。このことを私は『入江塾の秘密』という本を読んだり、テレビのドキュメンタリー番組を見たりして知っている。そして、入江塾が体罰主義によってトップ校に多くの合格者を送り込んだことも事実である。
 生徒から聞いた話なので、本当かどうかは分からないが、ある塾では「ローカ属」という言葉があるそうで、宿題を忘れた生徒を廊下に並べて正座させ、教師が端から順に生徒をぶん殴っていくのだそうだ。この塾の教師は生徒の頭をスリッパで殴ると言う話も聞いたことがある。このような行為は特定の教師に限ったことではなさそうなので、この塾では体罰もマニュアル化されているのだろう。
 このような、体罰を教育の一つとして取り入れている塾と知って、生徒本人が主体的に入塾するのであれば、これはもう、どうしようもない。私が外野席からとやかく言うことではないだろう。しかし、本人はともかく、このような塾に金を払って行かせようとする保護者は、ある意味親としての責任を体罰塾に転嫁しているのではないかと思う。私は、人間に体罰を与える権利があるのは、その人間の親のみであると思う。だから、子供を体罰塾に通わせる親は、自分にしか出来ないことを自分が出来ないため、他人に託しているのではないかと思うのだ。

 自分が主体的に体罰を受けたいと思っている奇特な人間を除いては、親が子に対して行う以外、人は人に対して体罰という暴力行為はすべきではないというのが私の意見である。特に、一般に学校や塾においては、体罰をする側は教師という大人であり、体罰を受ける側は子供である。絶対的に強い人間が弱い人間に暴力をふるうのは人の道に反する行為である。人の道を教えるべき教師が、反人道的行為をふるうことは、本来あってはならないことである。「愛の鉄拳」などは存在しないのである。
 学校や塾で教師が生徒に対して行う行為を、一般に教育と言っている。この崇高な行為に暴力はなじまない。「スパルタ教育」という言葉がある。石原慎太郎さんの著書もある。この「スパルタ」は、暴力とは違う厳しさのことであろう。厳しい教育は必要である。そして、厳しさと暴力は別物である。
 例えば、家畜は暴力をふるわなくては言うことを聞かない。だから、農作業や力仕事で家畜を使うとき、人はムチを持って言うことを聞かせようとする。競馬もそうである。ゴール直前に騎手は馬をむち打って走らせる。余談だが、競馬について、どうしてあんな残酷なものがスポーツなのだろうといつも思う。天皇までが賞を出している。動物虐待のギャンブル以外の何者でもないと思うのだが。
 前掲の体罰塾や暴力教師は、生徒を家畜同然だと思っているのだろうか。暴力をふるわなければ言うことを聞かせられないのは、牛や馬と同様である。しかし、どんな生徒でも、かけがえのない一人の人間である。御両親からすれば、何者にも増して大切な命である。その子供をスリッパで殴るなどは言語道断である。
 暴力を用いなければ言うことを聞かせられない教師は、もはや教師ではない。彼らこそ、牛か馬同然の人間である。本当に生徒から信頼され、尊敬される教師は、決して暴力はふるわない。静かな説得、あるいは情熱あふれる指導で生徒を引きつける。
 かく言う私も、まだまだ人間が出来ていない。だから、生徒たちからの信頼に足りうるような教師たらんと、日夜努力している。

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この記事へのコメント

soiu
2013年09月25日 17:26
思い当たる教師が過去に多くいますが、最近その一人がとある情報から「あるコネ」によって教育の現場に復帰したと聞きました。何十年も現場を離れているそうで、過去の問題は相殺なのかと涙が出ました。ちなみにその教師の場合、彼は部活動での体罰が異常なまでにひどかった。その他、授業中の度過ぎた体罰もひどく、特に自分の気に入らないことが最高点の場合、相談室という密室に閉じ込めて、さらなる暴行を行っていたことを思い出しました。当時、学校は黙認でした。その密室暴行がなぜ明らかになったかと言うと同じように暴行(セクハラ)を受けて逃げ延びた女性の方の話で発覚したことです。ただ当時は、警察に連絡したり、処罰の手法が今でも見当たらないのが問題だったと、今考えると思います。

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