グローバルとローカル

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グローバルということばを最近よく聞くようになった。昔はあまり耳にしないことばだったように思うが、それは単に私の無学のせいかもしれない。たしかに、私の身の回りにも外国の人がずいぶん増えたし、転勤や出張で海外に行く方も多くなった。社会科の教科書にも「内なる国際化」ということばも登場するようになった。世はまさにグローバルブームである。ビジネスの世界のみならず、小学校でも国際理解だ、英語教育だとグローバル化が進んでいるようである。

 グローバル化は時代の流れであり、このことを否定するつもりはない。しかし、われわれはこの大きな流れに飲み込まれ、逆らうことなく、ただ流されているように思えるのである。グローバル化といえば聞こえはいいが、その実態はアメリカ化なのではなかろうか。文化も、経営も、そして教育までもがアメリカに右に習えをしているように思われる。そんなにアメリカが全てにわたって優れているとは思えない。逆に、第二次世界大戦に勝った勢いでここまで発展してきたアメリカも、もうそろそろ限界に近づいているのではなかろうか。イラク戦争への国内での批判の高まり、多民族国家であり、そのことが繁栄を築いてきたはずなのに、移民規制を強め、多くの反発を招いていることなどがその好例である。
 日本人も、旧石器時代からの長い歴史を持ち、縄文文化に始まり、数千年にわたって多くの個性的な文化を生み出してきたこの国を、どうして軽視するのだろう。最近聴く音楽といえば、英語混じりのわけのわからない「ミュージック」と呼ばれるものであり、能楽や日本舞踊とは似ても似つかない、飛んだり跳ねたり回ったりの「ダンス」と呼ばれるものがテレビに流れてくる。だいたい、ギターをかかえて団体で歌ったり踊ったりのガキどもや、恥ずかしげもなく半裸姿で歌っている小娘を「アーティスト」呼ばわりすることが気にくわない。小学校の英語教育もいいが、まともに日本語の読み書きができない小学生がたくさんいる。いや、小学生ばかりではない。高校生も、大学生も、さらには社会人でもまともな日本語文章を書ける人間はそう多くはないのではなかろうか。
 われわれは、もっと自分たちの足もとを見つめなければならないと最近思っている。地球的規模とは無縁の、地域に根付き、家庭に根付いて、淡々と生きているひとたちがたくさんいる。そういう人たちをこそ、私は尊敬するし、その生き様を見習いたいと思う。
 国鉄のローカル線に代表されるように、ローカルということばはグローバルに追いやられ、廃れてきている。私の塾も極めてローカルな塾である。だから、全国展開する大規模塾には抗いようがない。それでも、私も、私の塾も、ずっとローカルでありたいと思うのである。

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