先生と呼ばれる職業

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 ある塾の募集広告に「先生と呼ばれる仕事、始めませんか?」というコピーがあった。かように、「先生」という言葉にはどこか尊敬の気持ちが込められ、そう呼ばれることにある種のあこがれみたいなものを持たせるものがある。

 ところで、塾の教師という職業である。塾の教師には何の資格も必要ない。塾の教師になるための特別な勉強や訓練もない。しかも、多くの塾では人手不足で相変わらず求人誌を賑わせている。つまり、なろうと思えば、明日にでも「先生」と呼ばれることができる職業が塾の教師なのである。このように考えると、自分も塾の教師の端くれで、こんなことを言うのも何だが、塾の教師に本当に「先生」と呼ばれるだけの資格があるのだろうかと思う。
 それでも、心底子供が好きで、教えることが好きで、子供のためにはどんな犠牲もいとわない塾教師もいる。せめてそのようなイメージが塾教師像として一般化してくれることを願うことにしよう。
 私はというと、「先生」などと人様から言われるような人格にはまだまだ行き着いていない。生徒の親御さんから「先生」と呼ばれるたびに罪悪感すら感じる。だから、生徒との対話の中でも自分のことを「先生は・・・」とは決して言わない。一貫して「私は・・・」である。たぶん、死ぬまで自分のことを「先生」とは思えないだろう。

 「先生」と呼ばれる職業には、小学校、中学校、高等学校、大学、また塾のような各種学校の教職がある。更に、医師、弁護士、会計士等の自由業があり、国会や地方議会の議員も、そのように呼ばれている。これらの職業の中で、真に「先生」と呼ばれるに値する職業はあるのだろうかと考えてみた。もちろん、業種よりも先ず「人」であることは言うまでもないことだが。
 塾の教師については上に述べた。次は学校の教師である。大学で教職科目をいくつか履修し、何週間かの教育実習を積めば、それで資格が得られる。いったい、これだけのことをやったかやらなかったかで、それほど教師としての力量に差がつくのだろうか。私は教職資格は有していないが、学校の教師と比べ、教える力量が劣っているとは思っていない。自分なりに、それ以上の勉強をしているという自信があるからである。
 大学を出て、学校に赴任し、すぐに教壇に立つ人も少なくない。彼らは早速「先生」と呼ばれ、何十人かの子供に勉強を含め、様々なことを教えることになる。いったい、何の社会経験もなく、おそらく親になったこともないこれらの若者が、本当に将来有為の子供たちに、あやまたずに教育全般を施すことができるのだろうか。
 私は、特に小・中学校の義務教育の教師には、豊富な社会経験を積んだ大人こそがなるべきだと思う。数年、あるいは数十年の社会経験は、数科目の教職科目の履修と数週間の教育実習より、はるかに重い。 豊富な社会経験を生かし、大好きな子供たちに人間としての生き様を伝えていく教師、このような人たちこそ、「先生」と呼ばれるに値するのではないだろうか。

 教師という職業に就くには、資格と言うほどの資格はない。むしろ、国立大学の教職課程を除けば、一流大学卒業者は小学校や中学校の教師にはなりにくい現実がある。一流大学では小・中学校教師の資格が得られないからである。一流大学に在籍していて、勉学をする中で教師になりたいと思っても高等学校の教師への道しかない。
 政治家にも何の資格もない。ジバンとカバンとカンバン、それにあと二つ、雄弁さと羞恥心のなさが必要かもしれない。もちろん、天下国家のために身命を捧げている政治家もたくさんいるだろうが、所詮は国民・住民の代弁者である。だから、政治家を「先生」と呼ぶこと自体がまちがいである。
 これに対して、医師、弁護士、会計士などの、いわゆる自由業に就くには、それなりの資格が必要で、しかもその資格を得るためには、かなりの難関をくぐり抜けなければならない。さらに、資格を取ったからと言って、すぐに実務に就けるわけではなく、何年かの修行を積んで一人前になるのが一般的であろう。
 このように考えると、「先生」と呼ばれるに値する職業とは、このような職業のようにも思われる。しかし最近、弁護士という職業には、いささか疑問を持つようになった。
 弁護士の重要な仕事の一つは、裁判の代理人である。裁判では原告と被告(被告人)が争う。極論すれば、一方が善で他方が悪である。弁護士は善にも悪にも付く。そしてまれに、弁護士の力量によっては悪が勝つこともある。弁護士には正義の味方というイメージがあるが、よくよく考えると、常に正義が勝つならば、弁護士はいらないことになる。悪にも味方する弁護士を「先生」と呼ぶに値するだろうか。

 教師であれ、医師であれ、弁護士であれ、一般に「先生」と呼ばれる職業に就き、職場に身を置いた瞬間から、その職場は、古代の環濠集落のように外界から遮断される。集落の中は一種独特の世界であり、外部との交信は途絶える。そして、その職場では「先生」は就任一年目から「天皇」となる。
 「先生」と呼ばれる職業と、一般の会社或いは商店などの職業との最大の相違は、その顧客との接触の仕方である。会社や商店にとっての顧客は「お客様」であり、自分が下座に立たなければならない。士族の商法では顧客が寄りつかないことは歴史をひもとくまでもない。
 一方、「先生」と呼ばれる職業にとって、多くの場合、対顧客では「先生」が上の立場に立つ。教師にとって、顧客は生徒であり、医師にとっては患者、弁護士にとっては、彼らを頼る弱者である。このことが、「先生」を思い上がらせ、自分を「天皇」のごとき者と錯覚させてしまうのである。
 中でも最も愚かな思い上がり者は教師である。教師による暴行、セクハラ、その他様々な犯罪の報は毎日の新聞に載らないことはない。ついには京都の進学塾で殺人事件まで起きてしまった。
 確かな資料があってのことではないが、自分の子供を受け持った教師がすべて尊敬すべき聖職者であったと思う親はそう多くないのではなかろうか。
 立場の弱い者たちを慈しみ、育てる側の者は、もっと謙虚になり人格を養う必要があるように思われる。その意味で、特に世間知らずの若い教師は、環濠集落から飛び出し、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と言う接客の職業に入っての研修も必要なのではあるまいか。 

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