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zoom RSS 人生の失敗

<<   作成日時 : 2006/05/26 12:14   >>

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 「失敗は成功のもと」とも言う。失敗を積み重ねて、徐々に成功に向かう、これが人生といえるのかもしれない。入試に失敗する、就職に失敗する、試合で失敗して負けてしまう等々、失敗は人生を歩んでいく上では常につきまとうものなのだろう。

 化学の世界では、失敗は数限りなくあるようだ。何度も実験をくりかえし、その都度失敗する。その反省の上に立って、また実験をし、また失敗する。そして、失敗の中で思わぬことが起こり、新しい発明につながることもあるようだ。
 このような失敗は、まさに避けられないものであり、むしろ失敗することによって大きく進展していくこともあるだろう。しかし、どのような失敗でも、それがそのあとの糧となるとは限らない。たった一つの失敗が人生そのものをだめにしてしまうこともある。
 このような失敗の中でも最悪なのが、刑法で言うところの過失致死、あるいは過失傷害と言えるものであろう。現代は多くの人が車の運転をする時代である。ほんのちょっとした油断が思わぬ交通事故を引き起こす危険性は誰もが持っている。
 昨年おこった、サレジオ学院生を襲った事故はその最たるものである。サレジオ学院と言えば、神奈川県でも有数の進学校である。その生徒を、二十三才の青年が二人もひき殺し、一人の右足を切断させた。他にも重傷者がいるという。青年にしてみれば、自分の運転でこのような大惨事が起こるとは、事故の一瞬前までは思っていなかったことであろう。しかし、青年の過失によって、将来有為の、おそらくこの青年の何倍もの社会貢献が出来たであろう命を失わせたり障害の身にさせた。
 被害者とその家族、学校、加害者とその家族、誰にとっても大きな損失であり、何一つとして得るものはない。ただ、悲しみだけが残る。失敗を恐れるな、とよく言われるが、失敗は、恐れるものであると思う。

 失敗とひとことで言うが、私が思うには、失敗には三つの種類がある。
 一つ目は、成功には欠かせない失敗である。まさに失敗は成功のもととなるものである。初めて自転車を運転するとき、誰かに後ろを支えてもらい、それでもうまくこげないで転んでしまう。その失敗を何度か繰り返し、いつか支え無しでこげるようになる。このような失敗はスポーツの世界に多く、練習によって克服していくものである。
 二つ目は、偶然成功に転じる失敗である。災い転じて福となるように、一つの失敗が大きな発明となるような失敗である。ポストイットの発明は、強力な接着剤を作るための実験が失敗したおかげで成されたものだそうである。このような失敗は、実験を伴う化学の世界に多く、何度も実験を重ねることによって生じるものである。したがって、偶然とはいえ、努力がなければ起こりえないものといえる。
 三つ目の失敗は、今までの人生を台無しにしてしまうような、取り返しのつかない失敗である。上記二つの失敗に対し、この失敗は犯してはならない失敗である。「失敗してしまいました」「ごめんなさい」「またやり直します」「勉強になりました」と言って済むようなことではない決定的な失敗、例えば交通事故や思慮を欠いた行為による失敗である。この失敗には同情の余地もなく、場合によっては法的な犯罪に値することにもなるものである。
 このような失敗は、スポーツや化学の世界での失敗とは違って、ひとつ間違えば誰もが犯す可能性がある。だから、とてつもなく恐い。この失敗には、自分自身だけでなく、被害を被る人や物が出る。それ故、人は失敗を恐れるべきで、このような失敗を犯してはならないのである。
 しかるに、調子に乗った若者、前後の判断を欠いたお年寄りを中心に、このような不幸な失敗は後を絶たない。どうしてなのだろうか。また、どうすればこのような失敗を減らし、無くすることが出来るのだろうか。

 よく「失敗を恐れるな」とか、「失敗してもいいから頑張れ」という言葉を耳にする。この場合の失敗とは、極論すればどうでもいい失敗であり責任の所在も曖昧である。
 しかし、たとえ過失にせよ犯罪につながる失敗となると、そうはいかない。「失敗してもいいからこの犯罪を犯してみよ」という人はそれほど多くはない。このような失敗はすべきではないのである。
 私は、学問や教育の究極の目的は、失敗をさせないような人間に育てあげること、あるいは失敗を避けるように判断出来る人間に育てることにあると思っている。もちろん例外はあるが、教育をしっかり積んだ者が失敗を犯す割合はおそらく低いと言えるだろう。だから、子どもたちにしっかりとした教育を施すことによって失敗から生じる犯罪を減らすことは可能であると思う。
 私が思うに、そのような教育とは宗教教育でも道徳教育でもない。一言で言えば、ものごとの筋道を身につけさせる教育である。
 例えば、足もとに石ころが転がっていたとする。この石ころを何の思慮もなしにけっ飛ばすか、あるいは、「すぐ近くに小さい子どもがいるかもしれない。大きなガラス窓のある家が建っているかもしれない。」と考え、次の行動に移る判断をさせることができるかどうかである。
 ものごとの筋道を論理という。例えば数学は、論理を学ぶ学問である。数学を学べば論理的に正しい判断が出来る人間に育て上げることが可能である。
 数学だけではない。国語も理科も社会も音楽も、みな論理から成り立っている。この論理を単に勉強としてでなく、人生の上で必要なものとして捉え、失敗しない道を選ぶことが出来る子どもを私は育てたいと思っている。
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