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zoom RSS 職業としての塾教師

<<   作成日時 : 2012/03/15 02:49   >>

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 人間、ひとたび独立すれば自分で生活しなければならない。やがては家族を養い、親の面倒も見なければならなくなる。趣味を持ったり、たまには娯楽も必要だろう。これらは、いわば独立した人間としての上部構造と言える。

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 下部構造は、経済力である。独立した生活をするためには金を稼がなければならない。そのために仕事をする。私の場合の仕事は、塾教師としての仕事である。
塾教師としての仕事と一口に言っても、実に様々な仕事がある。その中で何と言っても最も基本的な仕事は、生徒の学習指導であることは言うまでもない。このことだけに絞って、以下に話を進める。
 学習指導は、次の三点に分けて考えることができる。
 第一点は、教材研究である。塾教師は「歩くテープレコーダー」であってはならない。毎年毎年同じ教材を用いて、同じくだらんギャグを言い、同じ内容の授業を行っているようではダメだということである。できることなら、自分で教える教科の教材くらいは自分で作成し、それを毎年毎年バージョンアップしていくことが望まれる。それが様々な事情で無理ならば、せめてプリントづくりに力を注ぐ必要がある。昔はガリ版でプリントを作り、それを謄写版で1枚1枚刷ったものである。そのことを考えると、今はパソコンで作成し、プリンターですぐに出てくる。プリント1枚の作成時間は大幅に短縮されている。これすらやらないようでは、塾教師としての資格はないと言うべきだろう。自分で作成したテキストならば、模範解答づくりの中で、予習もできている。しかし、市販の教材を使用する場合には予習は欠かすことができない。教材をなめてかかって、授業で予想外の大恥をかいた経験は多くのベテランと言われる教師が持っているのではないだろうか。ベテランと言うと聞こえはいいが、ベテラン=マンネリになるようでは教えを受ける生徒に迷惑である。新人はもちろん、ベテランも教材研究には労を惜しんではならない。
 塾教師の学習指導の第二点は、自己の人格形成についてである。職業にもいろいろな種類がある。例えば、営業マンという職業に携わる人は、時には自己を否定し、相手を持ち上げなければならないこともあるだろう。工場で働く人たちは、日がな一日無機物と対峙し合うだけの仕事を強制される。商社マンになった同僚で、目につくものすべてを金額に換算する習性の奴がいた。役人の多くは、人を上から目線で見る傾向がある。そして、いわゆるサラリーマンは常に上司の目を気にして、上司から言われる仕事を淡々とこなさなければ島流しの目に合うことになる。
 このような職業と違い、塾教師の仕事は、自己を欺瞞する必要のない、非常に人間的な仕事であると言える。いま、「正義」を語ることができる職業は、あるいは塾教師だけかもしれないと思う。塾教師という職業は駆け引きとか、金儲けといった世事に疎い職業と言えるかもしれないが、その分自己の正義を貫くことができる。そして、この正義を純真な子供たちに身をもって示すことができるのである。こんなすばらしい職業が他にあるだろうか。私は塾教師として、利害や打算でなく、世の中の真実を子どもたちに訴え、考えてもらうことのできる立場にいることに非常に大きな使命を感じている。
塾教師の学習指導にとって必要な第三点は、常に勉強することである。生徒たちに「勉強しろ、勉強しろ」と言って、自分は何も勉強しないでいるようでは、塾教師としては失格である。生徒に「勉強しろ」と言うならば、その2倍も3倍も塾教師は勉強しなければならない。ここで言う塾教師の勉強とは、国語や算数の勉強だけのことではない。むろん、それも予習の中に入ることではあるが、もっと広い人間としての勉強のことである。
 例えば読書である。以前、読書が嫌いで全く本を読まない教師がいた。その教師は人間として包容力が無く、生徒から慕われず、結局塾教師の道から去らねばならなくなった。読書は人の心を豊かにさせる。多くの本を読んでいる人間と、週刊誌と漫画程度しか読まない人間では、合っていても何となくその人間の尺度がわかるものである。生徒の読書を勧めることも塾教師としての仕事である。その教師が本を読んでいないようでは説得力にも欠けるというものである。
 そのほか、旅行、趣味など、いろいろと経験し学ぶことである。趣味のない人間ほど魅力のない人間もない。塾教師は少なくともいくつかの趣味は持つべきである。自分がやっていること、これからやりたいことを情熱を持って生徒に語りかけることのできる人間は塾教師として成功するだろう。

 教材研究、人格形成、人間としての勉強、この3つが塾教師としての学習指導において必要であると説いた。この3つの条件の根底にある、下部構造の、更に土台となるものがある。
 極めて抽象的ではあるが、私は、それは「情」であると思う。それは情熱の「情」であり、愛情の「情」である。よく「情がうつる」という。貧しい環境の中で必死に生きようとしている途上国の子どもたち、ハンディーを持った人がそれを乗り越えようとしている懸命な姿、このような光景をみたとき、誰しもが感動し、自分ができることを真剣に考えるだろう。「情がうつる」とは、このようなことであろうと思う。一生懸命に勉強している子どもたちを指導していて、何とかこの子どもたちの成績を上げさせたい、合格させてあげたいと思わない情のない教師は、すでに塾教師ではない。真の塾教師ならば、そのような子どもたちのために自己を犠牲にしてでも行動しなければならない。その具体的行動が、先に述べた3点である。
 本文のはじめに、独立した人間はやがて家族を養わなければならないと書いた。家族に対する愛情は、どんな人間も持っているものである。まして、自分の子どもに至ってはなおさらである。塾教師にとっても、自分の子どもは別格であろう。自分の子どもと塾の生徒をてんびんにかければ、どの教師も自分の子どもに重きを置くであろう。それは当然のことでありやむを得ないことだろうと思う。
 問題は、塾で教えている生徒たちと自分の子どもとの距離をどれだけ縮めることができるか、である。塾教師は、塾の生徒を自分の子どもに限りなく近づけられる人間であってほしいと切に願う。

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